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学校教育で英語は数学の公式のような無機質な記号になる

欠けたピースをはめるように文法問題を解く英語教育

学校で英語を習っていた時は、英語は数学のようなものだと思っていた。英語を習う目的は=(イコール)で結ばれた等式の左辺と右辺を合わせるように、文法的に間違いのない文を作ることだった。

例えばx2-3x+2

=(x-1)(x-2)

に展開すると、何かが片付いてすっきりした気分になるように、She (  ) French. のかっこ中にspeaksという正しい文法の解を当てはめると、黄金比のような完全性のようなものを感じていた。

 

不完全なものを完全無欠のものにすることが英語の問題を解く動機のような気持ちがあった。英語の問題を解くという行為は失われたピースをはめてパズルを完全なものにして、世界を整理した達成感を味わうということだった。

パズルをしすぎると英語で話して生活している人を想像できない 

これは確かに楽しいが、これこそが人に外国語、外国人とは何なのかを誤解させる根源である。外国語はパズルではない。

あなたにとっては理解できない外国語だが、地球のどこかにはその言語を話し、家族、友人と感情を伝え合うという非常にプライベートなものとしている人たちがいる。単なる意味を持つ記号であるという以上の機能がある。

英語の感情のくみ取りにくさ

さらに、日本人にとって英語などの言語には「~だよ」「~やで」のような豊かな感情表現が少ないので、人間味のない機械的なコードにしか見えないかもしれないが、それは違う。

 

外国語はパズルのような頭の体操ではなく、誰かがその言語で考え、悩み、精一杯人生を生きているとわかった時に、外国人という存在をより身近に理解できるようになる。

以前は、外国語を話す人を自分たちとは違う生き物で、永遠にわかりあえることもないだろうと心のどこかで感じていた。母語を話す自分たちだけが高等な人間で、外国語を話している人たちは野蛮な動物並みと感じている人さえいるだろう。

学校英語教育で日本語だけを人の話す言語だと洗脳する 

以上の点から観て学校教育の英語とは、同じ言葉を話す自分たちという集団と外国人を同じ人間だととらえる機会を奪うどころか、外国語は数学の公式のように当てはめるだけの記号に貶(おとし)める有害な存在だと言える。外国人を野蛮なものや無機質なものにするからだ。