「手段が目的化している」はもはや批判の常套句ですが、それと同様に耳にするのが「英語は只のツール(道具)に過ぎない」です。これはどういう意味なのでしょうか。
(ツール=道具=手段 という前提で話を進めます。)
最初にあえて断っておくと、英語を目的としてはいけないと完全に否定するものではありません。批判は加えますが、英語の勉強は楽しい趣味だというのも一つの考え方として認めます。
それと、「プログラミングは目的ではなく手段」論と重なる部分があるかもしれません。
今回は、「英語はツールに過ぎない」という言葉の意味を深く追及するのが目的です。
先に結論を言うと、2種類の意味で使われているようです。
- 英語が正しくなくても意図が通じれば良い
- 英語を使う場面がないと威力を発揮しない
手段と目的とは何か
「パソコンはツールである」を例に考えてみます。
パソコンを買う前に性能を吟味し、よくメンテナンスをする人は、性能それ自体に関心があるだけなのでしょうか?また、メンテナンスをすること自体が好きなのでしょうか?
そういう人もいるでしょうが、多くは何か作業をする時に快適に使いたいからです。動きが遅いパソコンでは作業の効率に支障が出てしまうという経験がある人もいるでしょう。
この例を整理すると:
目的:(例)インターネットで情報を収集する際に快適に作業をすること
手段:パソコンの性能を管理する
これを英語に置き換えてみると:
目的:(例)英語で書かれている知りたい情報を読む
手段:英語を使う
目的達成とはどんな状態か
極端な話に拡大して言えば、
- たとえ英語が間違えていても、通じれば良い。
- たとえ英語が間違えていて通じなくても、英語を使わない方法で通じれば良い
英語を日本語に置き換えて考えます。ある外国人が間違えた日本語で「リンゴを2匹ください」と言っても意味はわかります。「リンゴ」という単語がわからなくても、リンゴを指さして、指を二本示せば通じる可能性があります。
手段が何であろうと、このように目的にフォーカスして考えます。
英語を手段として使う外国人の例
英語でネット検索していると、ネイティブでない人の書き込みもよく見られます。自分の言語のコンテンツに面白いものが少なかったら、外国語でも面白いコンテンツを見るのは当然です。
バイリンガルや多言語話者は何語で考えているのかでも紹介した様に、非英語ネイティブのネットユーザーの中に英語で物を考えている人すらいるようです。
これだけ、英語を使って何かをしていれば、毎日見るうちによく見る単語は覚えたりして、いつかは英語が身についても不思議ではありません。
英語が必要でない人
「英語はツールである」の2つ目の意味、「使う場面がないと英語も無意味」を考えていきます。
世の中には、みんながみんな英語が必要という訳ではありません。そういう人は勉強が楽しいなどの効果を除けば、英語を勉強しても意味がありません。英語を勉強するのが好きなら、必要の有無に係らずやっていいと思います。
一方で、英語を使う必要がすでにある人や将来使って何かしたい人はどんどん自分で勉強すれば良いです。将来どんな場面で英語を使いたいか今はわからないという人もとりあえず勉強しておいても良いと思います。
英語を道具だとみなしていない思考や言動
- 英語だけ神格化されている
- 英語に正規表現があると思っている
- 他人の英語を批評したがる
- 英語が話せる人のことを格好良いと思っている
- 英語を使ってやりたいことが特にない
英語が神格化
英語が世界の基準だと思っている人がいます。文法は英語が基準で、日本語はいびつな劣等言語だという考えの人もいます。
また、英語で書くと格好良いという考えも見られます。ポスターなどで、外国人が読むためでなく、格好良く見せるための英単語も多いです。
ただ、こういう考えが日本独特だとは思いません。昔からラテン語や漢文、サンスクリットなど様々な文化圏で神格化された言語はありました。
私の立場から言うと、英語しか外国語を学んだことがないと、こういう思考に陥りやすいだろうなと思います。
韓国語やタイ語などを現場で学んでいると、日本語を含めた言語というは何かということがイメージできます。言語はメッセージを抱えているだけで、その器としての表現方法としての言語は重要ではない。
英語の正規表現があると思っている
学校では下の英語を習います。
Hello! How are you? I'm fine. Thank you. And you?
この表現だけが正しい訳ではないのは周知のとおりです。しかし、学校の英語を離れると、自分が海外で聞いたネイティブの表現を絶対的に正しいと思う人がいます。
言語というのは実際はもっと柔軟なものです。日本語に置き換えて考えるとわかります。
正規表現があると考えている人は、その正規表現を習得することを目的としているケースが多いと考えられます。その正規表現を習得した自分になることが目的になっているに違いないのです。
ちなみに、この表現がなぜ教えられているのかと言うと、外国人が英語を学ぶ時に便宜上これを教えているだけです。日本語の教科書でも「さようなら」などを教えますが、実際「さようなら」は出番が少ないほうで、「失礼します」「じゃあね」などのほうがよくつかわれます。
他人の英語を批評したがる
英語がわかる人は内容を聞いているのであって、粗探しを目的にしていません。「この言い方はおかしい」と鬼の首を取ったように言うことが目的ではありません。
さらに拡大して考えると、英語を覚えると偉そうになる人がいますにも書きましたが、「ネイティブはそういう風に言わない」と批判するのが好きな人もいますね。その内容が正しいこともありますが、問題はこのセリフを言う時の態度です。
上の正規表現があるという幻想と同じで、「この言い方だけが正しい」と言っていたら、その人の言語に対する感覚は間違えています。日本語で考えてみたらわかりますが、こう来たらこうとしか言い返さないといけないというルールはそんなに硬直したものではなく、色んな返事があり得ます。
他の側面から見ても、母語話者は新しい言葉を作り出します。新しい概念を表現するためだったり、ダジャレのためだったり。
この態度と英語学習の目的の話がどうつながるのか。
正しい表現にこだわる人は、正規表現があると考えているに違いなく、その正規表現を身に着けることを目的としているに違いないのです。
伝えることや理解することよりも形式としての英語への執着が優先されて、正統な英語を知っている自分に酔いしれたいに違いないのです。
例外:注意書きなどの決まり文句
正規表現までの権威はありませんが、決まり文句はあります。
日本でも「よいこはまねしないでね」などの決まり文句があります。このような決まり文句は外国語から翻訳するより、よくつかわれる表現をそのまま使うほうが自然で、わかりやすいです。
(ちなみに、「よいこはまねしないでね」はDo not try at home.、「マネしないでください。」は Do not attempt.などの表現が使われています。)
英語はツールであり、スキルではないという意見
スキルとツールの違いを考えるのではなく、この意見はどういうことを言いたいのかを考えます。
英語さえできれば活躍できるという訳でもないという意味です。
外部参考:英語はツールにしか過ぎないという当たり前の話 - 世界は楽しみに満ちている。
英語は単なるツールを超えているという意見も
政治的な側面から見ると、「英語は単なるツールではない」という意見もあります。
最初は英語を取り入れるだけだったが、気づいたら自文化を侵略されていたという見方です。
英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書)の施さんの考えでは、英語ばかり使う人が増えると、英語を全ての基準と考え、日本語は劣った言語で日本文化は劣っていると考える人が増えるという意見もあります。この意味では、英語は単なるツールに留まらないと言えます。
実際今すでに、日本はダメな国で日本語はダメな言語だと考えている人は大勢います。しかし、しっかりとした根拠を持っていない人も多そうです。
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