主語を省くから日本人はディベートが苦手で英語はディベートの言語なのか?

日本人がディベートが苦手な原因は日本語の構造にあるという考え方に対して私は反対です。

ディベート文化にまつわる論拠

そのようなものの論拠に、日本語は以下のようであるためと言われています。

  1. 省略が多い表現を多用する
  2. 行間を読む
  3. 空気も読むようになる
  4. ディベートを避ける

英語の場合は以下のようだと言われています。

  1. 主語を省略せずはっきり明示する英語を話す
  2. 論理を重んじる
  3. ディベートが上手になる

(実際は英語でも主語を省略する場面はありますので、「英語は例外なく主語を置く」というのは間違いです。)

正直あまりにも短絡的な比較が納得できません。省略が多いから空気を読むようになるという論理に論理の飛躍を感じます。

私は、言語形式ではなく、民族の文化(思考習慣)が原因だと思います。

言語と思考パターンの関係(仮説)

まず、言語形式と論理思考に本当に相関があるのか。これに関しては相関があるという仮説があります。言語が思考を形作るという仮説です。

例えば、虹の色の数がいくつに見えるのかは、それぞれ話す言語によって一定の傾向が見られるそうです。虹の色はグラデーション(段々と変化している)なので色の境目は見る人が認識できる数だけで、その認識できる数を言語が決めているという考え方です。

またもっと特徴的な例がエスキモーの雪の表現が英語ではsnow一種類でしか言い表せないところをたくさんの種類で表現する言語があると言われます。

このような話にも反論があります。

同じ特徴を持つ他の言語の民族もディベートが得意なのか

冒頭の意見の弱点は、他の言語を挙げず、英語だけを引き合いに出して日本語の特徴を論じているところです。主語の省略という点に於いて英語と全く同じ条件の言語は全てディベートをする文化なのだろうか?残念ながら、このような話をする人は他の言語例を挙げません。

主語を省略せず、且つ主語を先に置く言語を英語以外にも観察してみて、例外があればこの仮説は根拠を失います。ベトナム語はあまり主語を省略しませんが、ディベートして論理で相手を真っ向から否定するということはあまりありません。

表現の曖昧さは文化によって異なる

文化ごとの言語表現の曖昧さに関する研究はあります。有名なのはエドワード・ホール(Edward Hall)のBeyond Culture(邦訳文化を超えて (研究社小英文叢書 (255)) )で紹介されています。

文脈に頼り言葉での表現を省略する文化(high context culture、高文脈文化)と言葉ではっきりと表現し、文脈でわかることに頼らない文化(low context culture、低文脈文化)。

文脈に頼るというのは、例えば人にただ「取って。」とだけ言われて、何を取って欲しいのかが通じるような状況を言います。

彼の研究に依ると、日本語は曖昧な表現をする部類であると言われます。しかし、その原因は言語の構造にあるとは考えられていません。ある文化がはっきり言葉で説明する傾向にある原因として、言語化しないと通じないほどに様々な民族が混ざり合う場合、言葉で表現すると分析されています。

詳しくは英語版のHigh- and low-context cultures - Wikipedia, the free encyclopediaを読んでみてください。

もっとも低文脈文化と言われるのがスイスのドイツ語圏でした。どのような話し方をするのか興味深いところです。

主語を省略するけれども動詞で主語がわかる言語は?

ちなみに、ポルトガル語などは主語を省略することが多いですが、動詞の変化の仕方によって主語がはっきりとわかる構造になっています。世界の言語にはどんな語順があるのか

英語ディベート論者はこのような言語をどう分類するのでしょうか。

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